白頭山節

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唄収録日     :2015/8/28
唄記述日     :2015/9/1、2019/2/2

 

*歌詞*

「白頭御山に 積りし雪は
 解けて流れて鴨緑江(ありなれ)の」
 ああ 可愛い乙女の 化粧の水

 尾花まねけど 見向きもせずに
 何処へ行くのか あの月は
 ああ 雲にかくれて 消えて行く」


*記述*

 白頭山って日本ではないよね、と思ったあなたは正解です。中国と北朝鮮の国境にある朝鮮半島最高峰(標高2,744メートル)の山です。

 

 何故ここを舞台にした唄が日本にあるのかというと、昭和の初め当時大陸で<馬賊の首領をしていた>(※)「植田国境子」という方が、昭和8年と10年に日本に渡り、当時の有名な唄い手に自分が作詞作曲した唄を伝授しレコードを出したからです。

<馬賊というのは、Wikipediaによると満州において騎馬で盗賊に対する自衛を行ない、自衛を通り越して自らが盗人になってしまったものもいる賊のことで、その首領の人物をどういう経緯で日本に呼ぶことになったのか>(※)、その人物は男性なのか女性なのか、どこの生まれなのか、そもそも名前のふりがなは何か、ということすら分かっていません。(おそらく名前はペンネームではないかと勝手に想像しています)

 大正から昭和初期にかけて中国大陸に渡った志士たちが、国事に奔走する傍ら酒盛りの唄として愛唱したようです。

 

 鴨緑江は古称で阿利那礼河と書きます。「尾花」はすすき。
 詞も曲も秀逸だと思いますが、輸入民謡のためか今となっては知る人ぞ知る唄になっているようです。

 ちなみに似たような経緯で大陸から日本へ持ち込まれた曲に、「鴨緑江節」があります。こちらは作詞作曲者未詳です。

 

(※)2019/2/2 追記・訂正
 植田国境子(本名:植田群治)氏に縁のある方よりメールを頂戴しました。以下に全文引用します。

 

「植田国境子について
 白頭山節の作詞作曲者 植田国境子(うえだ こっきょうし)は本名を植田群治(うえだ ぐんじ)と称し、植田家の五人兄弟の次男として奈良県吉野郡黒滝村で生まれた。
 父親植田久太郎が若くして亡くなったため、母方の里奈良県吉野郡西吉野村(現 奈良県五條市西吉野町)で幼少期から青年期を過ごした。
 明治37~38年頃(1904~1905)朝鮮開発の一つとして木材の切り出しが盛んになり、木曽と並んで林業の盛んな吉野に「いかだ流し」の職人募集があり、17~18歳群治青年もこの募集に応じて朝鮮に渡った。
 その後、朝鮮地で苦労を重ね、30歳半ば以降には、木材の切り出しから販売まで出来るようになっていた。
 その頃、大正8年~昭和2年(1919~1927)第3代朝鮮総督に斉藤実(さいとう まこと)が赴任してきており、総督が朝鮮と支那の国境巡視と木材切り出し現場の視察に来た折、群治が現地の案内役を勤め、自身が作詞作曲した白頭山節を披露したところ総督は大いに気に入り、総督の誘いにより、京城(ソウル)に移り住み斉藤施設秘書となり、併せて新聞記者にもなった。
 「国境子」は斉藤総督に付けてもらった「号」である。
その後、斉藤総督の紹介により当時九州で活躍していた赤坂小梅に歌手を依頼しレコード化され日本中に流行したのである。
 小梅の民謡は現地に赴き土地や情景を背景に手とり足とり口移しで教わったものを基調にしているが、それを小梅流にアレンジして歌い直したものが多い。
 その後3つの会社社長、市議会議員も勤めた。
 昭和20年8月15日(1945.8.15)終戦と同時に幼少期を過ごした母方の里に引き上げ、余生を過ごしていたが昭和28年10月18日胃がんのため満69歳で死亡した。戒名は「白頭山院国境子居士」として植田家の墓に眠っている。
 墓碑には白頭山節の歌詞が刻まれている。
 「白頭山天池に 積もりし雪は 解けて流れてアリナレの 可愛い乙女の化粧の水」」

 

 当文章と併せて、実際のお墓と植田国境子氏の生前のお住まいの写真を頂戴しました。ありがとうございます。
 何といっても「鴨緑江節」と同じ筏乗りの唄ということでしたので、私一人で勝手に興奮しておりました。メールを頂戴した後に考えると、仮に作詞作曲者が馬賊であったなら、唄は拍のないところがなくて、二拍子か三拍子になりそうですね。


*参照*

『日本民謡辞典』 1972 仲井幸二郎・丸山忍・三隅治雄 東京堂出版

『日本民謡大事典』 1983 浅野健二 雄山閣

※この唄は『日本民謡事典』には掲載されておりません。